〔第75回解読文・解説〕

解読文

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解説

若くして病に倒れ、志半ばにして逝った教育者・鈴木柿園しえんの最後の教えを紹介します。幕末から明治にかけて、越後・蒲原郡粟生津村(現在の燕市)で若者の教育にあたった“長善館ちょうぜんかん”という私塾がありました。鈴木柿園は2代目館主であった父・惕てき軒けんのもとで漢学を学び、長じて東京へ遊学して英語を修めました。新しい学問に触れて帰国し、長善館の教育課程に英語科と数学科を導入するなど、教師として精力的に活動し、将来を期待されていました。しかし、明治20年(1887)病により27歳の若さで亡くなりました。跡継ぎとして期待した柿園を失った父・惕軒の悲しみは深く、塾を閉鎖するとまで思い詰めたほどです。

今回の資料は、塾務にあたることができないほど病が篤くなり、療養生活に入ってからもなお塾生を案じ、塾生のために認めた書状です。文面からは、何度も書き直したり、新たに書き込んだり、推敲したりした下書きだと分かります。塾生への期待、思うようにならない自身の体調と悔しさなど、さまざまな思いの丈をぶつけているように感じられます。

内容を一部要約すると、挫折や失敗にめげず努力することが成果をもたらすこと、日常生活を悔い改めること、何のために学ぶのか、自由の意味、など塾生を叱咤激励し、最後に明治の青年としての志を訴えています。ちょうどその時期に長善館では様々な問題が発生しています。それらの問題に危機感を感じた柿園の心情を読み解くことができるのではないでしょうか。塾生に向けての柿園の「遺言」かもしれません。

若き教師柿園の残した言葉には、教育者としての厳しくも温かい愛情が伝わってきます。

【E9306-429-2-2、蒲原郡粟生津村長善館学塾資料】

(以下、続く)